満願寺屋の事

到来ものの木箱入り「剣菱」に添えて小さな冊子が入っていた。
剣菱の名前の由来や、頼山陽が礼賛したとか、赤穂浪士、維新の志士が愛用したとか逸話とともに宣伝文が書かれた例のパンフだ。
その裏表紙には相撲の番付に見立てた「名酒づくし」なる刷り物の模写が載っている。何気なく見ていると、そこに満願寺の文字を発見、なんと番付表の東小結に池田の酒・小判印は満願寺の名前が挙がっていたのである。
当時の相撲番付には横綱は無く張出もなかった。最高位である東の大関は当然伊丹酒の剣菱である。関脇も伊丹の男山、次いで小結に満願寺、西方には老松、白菊、白雪の名があった。
この番付の面白いのは、板元が八町堀にあって「江戸流行名酒番付」とあり解説によると池田、伊丹酒の江戸積み全盛期にあたる宝暦前享保間という凡そ250年前の板行と推定される点である。
その当時初めは陸路、その後海路と大量の酒樽が江戸へ下ったわけだが、おそらく現在でいえば米国輸出以上のリスクを伴っただろうから、それだけ大きな利益を齎したとも推測できる。
池田の酒造「満願寺屋九郎右衛門」についての知見はまず30年ほど前にさる物知りから一冊の本を教示されたのに始まる。それは宮本又次著「豪商」(日経新書)で、その中鴻池新六の項に次の記述がある。
池田郷の造酒は往古から御酒寮の寄人がやって来て、満願寺屋九郎右衛門の祖先に伝授したのに始まり、満願寺屋は川辺郡満願寺村から応仁年間(1467~68室町時代)に池田に移って酒造業をやっているからーー云々
つまり池田の酒造は伊丹や西宮、灘よりずっと古いとの説である。
次に司馬遼太郎著「歴史と小説」(集英社文庫)に酒郷側面史として池田の酒、満願寺屋について記している。一時は江戸でも評判になり大いに栄えたが、江戸中期以後は衰えーー云々とある。
その後、宮本又次先生が来山されるという事があり、先生に直接伺ったところによると、池田(満願寺屋)の酒造の技術は満願寺から出たのではないか、往時の技術の伝播には官人(神酒寮)から知識人(寺院)へのルートが大いに考えられるーーと。それにしても寺で酒作りとはーーの疑問には「それは米があったからですよ」との応え。
なるほど往時の寺には年貢米、斎米が蔵に山積みされて、寺の住人では食べきれない余剰分が酒米となったーー
かくてその昔、葷酒は山門を出ていったのである。

H29年9月21日(木)