千の風になって
私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風になって 千の風になってあの大きな空を吹き渡っています
この名曲の歌詞がちょっと気になっていた。
この歌詞からは、この歌は霊園を経営する者や墓石などを扱う業界にとっては、いわば天敵、賊党とも受け取られかねない観があるのだ。
お墓参りを否定するようなとんでもない歌の文句ではないか。私は墓には居ませんよ、と不在を告げることばが主意である。
しかしこの歌は曲がすばらしい上に歌い手も実に堂々としていて上手い。さてどう扱ったらいいものだろう。
思案しながらこの歌をもっとよーく聴いてみたら、全く逆の応えに気付いた。つまりこうだーー
まず歌詞の論理からすると「私にはお墓があります」が前提になっている。今は其処を留守にして(亡骸はそのままにして、魂だけが脱けだして)大空を自由に駆けめぐっているーーというのだ。
しかし、いつかは其処に(お墓に)、大空を駆けめぐって多少疲れた羽を休めるためにも還って来るのだという意思が言外に(暗に)語られていはしないか
現在は「墓じまい」だとかなんだとか言って「墓ばなれ」の世の中である。
そんな時代の風潮にあって、この歌は少なくとも墓の存在は肯定しているのだから、先に挙げた業界にとっても頼もしい存在であり、一種の応援歌と受け取っても良いのではないかーーというのが結びである。
H29.8月23日(水)